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ラスクにまつわるエッセイ入賞

おかげさまで ラスク フランスは 20周年を迎えます

1994年、ラスク フランスは出来たてのフランスパンをそのままスライス、世界で初めて贈答用のラスクとして発売されました。
毎日一本一本 愛情を込めてフランスパンを焼くところから始まり、バターの上澄みと 厳選したグラニュー糖をふりかけて焼きあげる特別な一枚・・・
ふわりと感じるバターの芳香と 極上の香ばしさ そして軽い歯ざわり
本物にこだわったシンプルな美味しさをこれからもずっとお届けしてまいります。

「ラスクフランスにまつわるエッセイ」は、2013年11月から2014年3月の期間で募集し、全国から約70点の応募をいただきました。ありがとうございます。
どの作品も心温まるものばかりでした。作家 角田光代さんに優秀作品を選んでいただき、最優秀賞1名、優秀賞1名、佳作2名が決まりました。5月18日(日)に、シベールアリーナでエッセイ入賞作発表会及び表彰式が行なわれました。

授賞式の様子1 集合写真

写真/後列左から 創業顧問 熊谷眞一、社長 佐島清人
前列左から 優秀賞 阿部裕子さん、作家 角田光代さん、最優秀賞 近藤綾子さん

 
 

*最優秀賞/近藤綾子さん「20年の軌跡」

授賞式の様子2 加藤さん

 「タスクあるぞ」「ボロボロこぼしてるってば。家にアリ入るよ!」ラスクを食べる時、今でもきまって父と母の言葉が頭をよぎる。
 山形出身の私にとって、シベールのラスクにはたくさんの思い出が詰まっている。
 子どもの頃は父のおみやげ。甘い物が大好きでラスクをなぜか「タスク」と堂々と言い間違える父を家族全員でツッコミをいれるのがお決まり。笑いすぎて、いつもボロボロにこぼしながらラスクを食べる私が母に怒られるのもお決まり。
 高校生になり、母と二人きりのシベールランチ。母にしか言えない内緒話もいっぱい増えた。すでに私の将来の夢は看護師に決まっていたから進学の相談もしたはず。そしておみやげに買うラスク。「こんな味も新しく出たんだね~」と言いながらも、やっぱりうちはプレーンが一番人気な味。家では「タスク」を心待ちにしている父が待っていた。
 そして看護大学の卒業が間近な時。私は山形を離れ、仙台に就職を決めていた。実は父は私が山形を離れることを強く反対していた。あの時、恥ずかしくて言えなかったけど、私は両親に甘えがちな自分を変えたかった。それからは仙台で看護師として暮らす日々。最初の数か月は慣れない社会人生活が辛くて毎週のように実家に帰っていた。今では実家に帰るのも数か月に一回。父は実家に私がなかなか帰ってこない事を怒っているらしい。母にはチクチクと言うらしいが、帰ってきた私を父は絶対に怒らない。
 実家には高確率でラスクがある。それも私が大好きなプレーン味で、そしてなぜか仏壇に供えてある。「タスクあるぞ。食べてけ。」20年もラスクと覚える気のない父に大笑いし、少しわざとふざけてこぼしながら食べる。「ボロボロこぼして~。アリ入る!」20年も怒られ続ける娘。こういう時間は、子どもの頃は毎日のようにあったはずだった。でも今は、ふと淋しくこんな日々はあまりもうないのかもしれないと感じる時もある。
 今年は雪が多くてなかなか山形に帰れなかった。そういえば、近所にシベールのお店を見つけたんだった。もう少し温かくなったら、ラスクを買って帰ろう。仙台から山形みやげを山形に買って帰るなんて母に笑われそうだけど、きっと父も母も喜ぶ。そうして帰ってきた私に父と母がなんて言うか簡単に想像がつく。本当に私たちは親子だ。

*優秀賞/阿部裕子さん「ハートのラスクに想いを込めて」

授賞式の様子3 阿部さん

 「どうして、今日降るんだず。」前方にある信号は、もう何度目の赤に変わったことだろう。ぴたりと止まったまま、まったく動かなくなってしまった車の窓から、車道すらも埋め尽くす勢いで降ってくる雪を、恨みがましく見上げる。家を出てから、もう2時間が過ぎた。それなのに、まだインターの入り口にもたどり着かないなんて。
 助手席には、ラスクフランスの箱が三つ。久しぶりに会うみんなに食べてもらいたい、とっておきのおみやげ。おなかがすいたな。大好きなラスク、一つだけ食べちゃおうかな。いやいや、首を横に振って、伸ばしかけた手を引っ込める。
 今日は、大学時代のサークル仲間と、十数年ぶりに会う日。福島を離れ、山形に嫁いで以来、ずうっと会っていない。子育てで忙しいとか、仕事が大変とか、自分の中で言い訳していた。そんな中、三年前の大震災。福島は地震や津波の被害だけではなく、原発の影響もあった。放射線量が高く、山形に自主避難してくる人も大勢いた。そんなことで生まれ故郷を身近に感じるなんて、やるせなかった。みんな、元気かな。心配はしていたのだけれど、自分達のことで精一杯で、年賀状だけのやり取りが続いた。ようやく、会えることになったのに…。
 姉御肌のQちゃんにはショコラ味。ブルーベリー味は、寂しがり屋のゆみこちゃんに。みんなのアイドルともりんには、メープル+くるみ。それぞれの顔を思い浮かべていたとき、携帯電話が鳴った。「もしもし。いまどこ?」ショコラQちゃんからだ。
 「まだ、山形市内からも出られてない…。」「福島も、全部交通機関が止まっちゃってるよ。高速も、動いてないよ。」Qちゃんの言葉に、がっかりする。「今日は、無理かなあ。」「残念だけど、仕方ないね。」
 止まったままの車の中でひとしきり話した後、電話を切ってから気が付いた。今までメールでやり取りしていたから、直接話したのって久しぶり。なあんだ、Qちゃん、全然変わってない。きっとみんなも、そして私も。一人だけ故郷を離れてしまったことへの罪悪感めいた気持ちが、みるみる小さくなっていく。
 またしばらく会えなくても、きっと大丈夫。まるで昨日も会っていたみたいに、話し出せる自信がある。行き場のなくなったショコラも、ブルーベリーも、メープル+くるみも、ぜーんぶお腹に収める自信もある。旦那も子どもたちも、ラスクを食べるお手伝いなら、喜んでしてくれるはず。
 春になったら春の、夏には夏の、ハートの形のラスクを持って、また大好きなみんなに会いに行こう。そして、おいしいラスクに負けないように、私の想いも届けよう。

*佳作/佐藤敦子さん「いのちをつなぐ幸せのラスク」

 2002年の春に、長女が結婚し上山市に住むことになりました。初めて帰ってきた時に、お土産はラスクでした。私はこのラスクのとりこになってしまいました。口の中に入ると甘い香りでサクサクと、とろけてゆきます。
 数年後のこと、一人暮らしの義母が心臓病で私の町の病院に、救急で搬送されました。それから3ケ月間毎日病院に通いました。その時私は五十肩の痛みがひどく、夜も眠れない日々が続いていました。病院の駐車券もとれない痛みでした。食事もよく取れなかった私は、長女にラスクを送ってもらいました。ラスクを熱いミルクにひたして毎日食べ続けました。そして義母は退院し、往復100キロ離れた自分の住む町の病院に転院し、3ケ月後施設に入所しました。私は週4日通いつづけました。痛みが続く中で、毎日ラスクに助けられました。毎日食べても飽きることはありませんでした。そしていつしか肩も痛みが治り、2010年の春に、長男が不治の病で入院して毎日病院に通いました。義母と長男のダブルの世話でもミルクラスクのおかげで乗り切れました。1ケ月後、長男は32歳で亡くなりました。
 悲しみも、いえぬ中で2011年の春、大震災があり夫の実家も津波で流失し、2ケ月後、義母も病院で亡くなりました。長男が亡くなってからこれまでに、私たちの親族を病気で12人亡くし、叔父は今だ津波で行方不明です。
 義母が入院した時も、長男が亡くなった時も、震災の時も、いつも私のそばにはラスクがありました。口に含むと、ひとときでも辛いこと、悲しいこと、痛みも忘れられて私を元氣にしてくれました。一度も寝込んでしまうことなくがんばれたのは、このラスクのおかげだと思っています。人の心をあたたかく包みこむこの味を、私はみんなに分かちたいと思い、二男の家族、親族、友人達に贈っています。

*佳作/荒木健文さん「ガキンチョの詩(うた)」

 それは最初、都合のいい菓子だった。大学入学で上京する僕にとって、山形=ダサイって思われるのはまっぴらごめん。センスの良い土産もの、シベールのラスクでビシッと決めよう。何でも最初が肝心だ。
 時は1995年。こんな田舎出てやる、と鼻息荒くする癖に、山形のお菓子をアピールしたい複雑なコンプレックス。キャンパス初日の帰り道、なまりを隠したぎこちない自己紹介を経て、ラスクフランスをクラスメイトに渡した。山形にもこんなお菓子があんだぞ、洒落てるだろ。美味しい、と食べる同級生を見て、まるで自分の事のように誇らしかった。
 肝心の自分が食べていない事に気づく。残りのひとつを自分用とした。アパートに戻るなり、ハート型のかけらをほおばる。本当はとても緊張していた、東京の初日がみるみる緩んでいく。思えばあれはホームシックの一種だったのか、一人暮らしの部屋で涙が出る。そしたら山形弁の声がどこからか聞こえた。「不安なんだっけべえ。よぐやった、なんとかうまぐいったべ。」
 そうだよ、田舎もんが馬鹿にされるんじゃないかって怖かったんだよ。お前がいて助かったよ。あんなに罵った山形で生まれた、ひとつの洋菓子が味方してくれた。俺みたいなガキンチョにも、おまえは優しいんだな。故郷の味をパリパリ食べた。やっぱり山形のお菓子だ、洒落てるだけじゃない、優しいんだ。こんな田舎、と嫌ってた山形が、愛おしいものに変わっていった。
 そして、あの日のガキンチョは故郷に戻ってきた。理由はいろいろあれど、第一に長男として。気づけば若い頃を語りだす年齢になっていて、上京という自分にとっては大きな挑戦を、懐かしく思い出したり。これからは地に足をつけ、安定ある日々をゆっくり歩いていくべきだよなあ。故郷にもどる事を、挑戦からの卒業と位置づけた。

 そんな故郷の新生活に慣れた頃、とある懇親会で白髪の男性に会う。「boys be ambitious、その後の言葉を知ってますか?」彼はマイクが渡ると咄嗟にこんな事を言った。知らないよ、でも気になるな、なんて言葉なの?「like this oldman、此老人の如く大望にあれ、という言葉なんです。」そう言ってニコリと笑い、自分の、そして山形の未来について話してくれた。後で知った。少年の目をしたその男こそ、あのラスクを作ったシベールの創業者だと。そして70を過ぎた今でもまだ挑戦し続けているという事も。その時、久しぶりに山形弁の声が聞こえた。「なんだず。最近おまえらしぐないな。」
 卒業していたはずの思いが、僕の中でうずき始める。いいか、あの頃のようには走れなくても、元はと言えばただのガキンチョだったんだ、失うものなんて何も無いぜ。今度はこの故郷で、挑戦する日々を送ってゆけよ。
 もどった後の故郷でラスクを買った。洒落ていて優しい、けれど内に秘めた力強さのある味を、僕はまだ覚えていた。変わらないハート型に今度は僕が問いかける。
 なあ、ガキンチョに年齢制限はないんだろ?